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越智康貴 越智康貴
越智康貴

花と夢 vol.4

越智 康貴

花と夢 vol.4

越智 康貴

このBRUTUS CREATORS HIVEでは、応募いただいたアンケートを独自に解釈し、写真と文章に展開した作品を制作しようと思っています(詳しくは 花と夢 vol.1 にて!)。‌‌今回は、写真のことを書こうと思います(なるべく短く)。


 自分の小さな頃の写真は、手元に一枚も残っていない。小さな頃というのは、物心つくまえ(って何歳なんだろうと思ったら個人差問題)のこと。小学校や中学校では、例えば遠足写真や卒業アルバムなんかに、自分の写っているものがある。けれど自分の手元には、たったの一枚も無い。実家というものも、とっくにないし、高校生まではそれなりに孤立していたので、人づてに辿る方法もない。
 記憶力が乏しくて、生まれてから二十歳になるまでの思い出を足していっても、10時間分くらいしかないんじゃないのかな? と思う。断片的に、数コマずつだけ覚えていて、それを繋ぎ合わせてもそのくらい。おまけに、どんな気持ちだったのかも曖昧模糊としている(強烈に感じていただろう怒りですら)。
 書きながら、記憶を『開ける』、『閉じる』というの、面白いなぁ、と思う。閉じっぱなしのものばかり。
 小さな頃の写真で、覚えているものが二枚ある。一つは、兄とお揃いのオーバーオールを着て横並びに写っている写真。とても幼く、髪の毛はふわふわで、目は黒目がちだったと思う。もう一つは、当時暮らしていた家の玄関前で一人、雑誌の付録か何かの、紙で出来たセーラームーンの変身グッズを身に付けている写真──これって”しあわせ”だったのだろうか。
 そこに写っている記憶が単純な”事実”だとは思わない。もちろんわざとらしく「虚構だ!」とも思わないけれど……。自分が、自分の記憶を都合の良いように改ざんしてしまうことを受け入れてもいいんじゃないかな、と、たまに思う。都合の良さ、悪さという点に限らず、どんな方法で自分の記憶と向き合うか、というか。どこかで自分を守ることに繋がっていること。人との関係を守ることにも繋がっていること。逆に、人を排除すること。何を保存して、何を完全に捨て去ってしまうのか。
 手づくりの記憶。もっと笑って。楽しそうに。悲しそうに。

 写真を撮る時に、もちろん具体的に伝えたいことがある場合は別なんだけれど、正直、ピンボケしていても、露出を間違えて白飛びしていても、あまり関係ないと思ってしまう。自分がそこに居合わせて、シャッターを切りたくなって、そういう意味で積み重なって自分になっていく感覚があるから。


お読みいただきありがとうございます。少しずつ更新していきます。

越智

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